ものおき

書いた文章をぶん投げる

ふたりになった話

イマジナリー彼氏さんについて窒素さんには「それは人魚の恋に似ていた」で始まり、「帰り道は忘れた」で終わる物語を書いて欲しいです。――『診断メーカー』より

 

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 それは人魚の恋に似ていた、彼を人間と見立てるならば。自分と彼とでは住む世界が違うと思うし、実際生活圏は全く別で、共通の話題などは無く、相手の話を殆ど新たな知見として聞くようなふたりだった。つまるところ色々と”合わない”。

 しかし、ひとつ共通項があった。ふたりは「ひとり」が好きだった。

 「ひとり」が好きというのは、孤独が好きと同義ではない。むしろ孤独を嫌がる難儀な人種だ。

 誰かの影があって、誰かの呼吸がある。その上で「ひとり」は成り立つから(少なくとも私にとってはそうだ)、「ひとり」が好きな人間には誰かが必要だった。

 私は、彼と一緒にいると「ひとり」になれた。理由は簡単、彼も「ひとり」が好きであったからだろう。私がひとりであるとき、彼もひとりであり、彼がひとりなら私もひとりになった。ひとりであっても、彼はそこにいた。

 その空気がとても心地よかった。

 だから彼のことが好きになった。

 私はそれをなかなか伝えることはできなかった。彼はひとりが好きだということを知っていたから。

 恋人になるというのは、真逆の行為であろう、ふたりになることを選ぶことだ。そんなの迷惑だ。

 しかし会うたび、私の知らない彼の世界に触れるたびに、どんどん彼に焦がれた。

 

 声を失うことで、足を手に入れ王子様に会いに行った人魚姫。不器用な私は、声があるくせにそれを声に出せなかった。

 代わりに、目から、口元から、手から、ぶわっとあふれてしまっていたらしい(これは彼に後から言われたことだ)。

 

「ねぇ、付き合う? 僕のこと好きでしょ」

 

 唖然とした。

 声にしなければ想いはバレないし、心地いいこの関係は崩れないと思っていた私は手元の本と一緒に自分の言葉もすとんっと落としてしまった。それから付け加えられた、僕も好き、って言葉に、パニックになって泣き出してしまったのは今でも申し訳なさで地中に埋まりたい。ごめん。

 彼がいて、私がいる。

 それぞれの世界は交わらなくても、ふたりはそれを分かち合っていた。「ひとり」が好きだったはずの私たちは、既に「ふたり」になっていたのだ。それに気づかずうじうじ悩み暴発させていたわけだ。

 少し悔しいしそれ以上に恥ずかしい。惚れた方が負けているいい例だと我ながら思う。

  深夜に食べる味の違う袋麺。図書館で手に取る小説とビジネス書。コーヒーと紅茶。繋がれるサイズの違う手。

 そんな「ひとり」がふたりで過ごす。その暖かさを知ってしまえば、きっと、ひとりは心地よくともとても寒いだろう。

 もう、私に深海を泳ぐためのひれは生えない。「ひとり」への帰り道は忘れた。